澤田正太郎は新国劇の創設者澤田正二郎を父に、女優だった渡瀬淳子を母に1916年(大正5年)に東京の現墨田区向島で生まれました。
いつ頃から画家を志したか定かではありませんが、1936年(昭和12年)に東京美術学校(現東京芸術大学)油絵科に入学します。
1996年(平成8年)に79歳で亡くなるまで毎日ひたすら絵を描いていました。
正太郎の絵の特徴の一つは油絵そして水彩画ともに対象を描くするどい線だと思います。
油絵の輪郭を描く細い黒の線や墨汁で描く水彩画の線は作品に凛とした緊張感を与えています。
正太郎は横浜や長崎、函館などの港町風景もたくさん描きました。港町が持つノスタルジックな雰囲気に惹かれたのかもしれません。
初期のサーカスや遊園地の絵では華やかな場所にもかかわらず人の姿がない絵になっています。
風景画にも人間の姿はありませんが人のぬくもりと生活の温かさを絵の中に感じます。
幼い頃に父と母を亡くし、淋しい時間の中で育った正太郎は人間の営みを愛し、
人へのやさしさを絵に込めたのかもしれません。
澤田滋野
1916(大正 5)年 新国劇創設者澤田正二郎と女優渡瀬淳子の長男として東京の現墨田区向島に生まれる
1937(昭和12)年 東京美術学校(現東京芸術大学)油絵科入学
1946(昭和21)年 俵藤摩耶子と結婚、逗子に移り住む
1952(昭和27)年 東京、田端へ移る
1955(昭和30)年 一陽会初回展に出品(サーカス小屋の絵)
1957(昭和32)年 第1回安井賞候補新人展に出品(回転飛行の絵) 第3回一陽展『回展飛行 』の絵で一陽賞を受賞
1958(昭和33)年 一陽会会員となりその後毎年のように個展を続ける
1968(昭和43)年 (株)フジタのカレンダー第一回目できる(以後2023年まで続く)
1994(平成 6)年 一陽会第40回一陽会展にて『北欧の町』が野間賞受賞
1996(平成 8)年 1月12日、死去(享年79歳)
澤田正二郎は1892(明治25)年滋賀県大津に生まれました。1910(明治43)年、早稲田大学文科に入学します。同時に坪内逍遥の文芸協会演劇研究所で演劇を学び、芸術座第1回公演に出演します。1917(大正6)年、それまで新劇の舞台に立っていた澤田はこれに飽き足らず、何人かの仲間と劇団「新国劇」を結成します。当時は歌舞伎や新劇などが中心となる時期でしたが、澤田はより広範な大衆に親しまれる新しい国民劇をめざし「右に芸術、左に大衆」をモットーとし、硬派の演劇と大衆的な剣劇で劇団は順調に発展していきます。澤田が手がけた演目は「月形半平太」や「国定忠治」などの剣劇の傍らシラノ・ド・ベルジュラックを日本に置き換えた「白野弁十郎」や「罪と罰」などの翻訳劇また「井伊大老の死」「大塩平八郎」などの歴史劇や伝記劇もありました。澤田が常に意識していたものが芸術と大衆を共に地道に進んでいく「半歩主義」でした。
澤田正二郎には「苦闘の跡」や「蛙の放送」など多くの著書があります。異彩を放つのが、地方公演中に留守宅の子供、正太郎とその姉に毎日のように続きものの絵とお話を書き集めた「パチパチ小僧」という本です。澤田の心優しい父親の側面が見られます。
1929(昭和4)年2月新橋演舞場に出演中に急性中耳炎を患い、3月4日36歳でこの世を去ることになります。3月8日、日比谷公園野外音楽堂で民衆告別追悼会が開かれ、数万人の会葬者を集めました。
大正6年、澤田正二郎は新国劇を仲間とともに創設します。当時の演劇界は江戸時代に作られた歌舞伎や文芸協会や自由劇場が主
導する新劇などが中心となる時期でした。それまで新劇の舞台に立っていた澤田がこれに飽き足らず、より広範な一般大衆に親しまれる「新しい国劇」を目指したのです。澤田は「右に芸術、左に大衆」をモットーにした地道に進む半歩主義をかざし、大衆の支持を受けるように
なりました。
昭和4年に澤田が急死すると、一時新国劇は窮地に立たされますが、島田正吾や辰巳柳太郎が舞台を引継ぎ、劇団の再建を進めていきます。
昭和42年には創立50周年を迎え緒形拳を中心とする新体制を出発させます。しかし、緒形拳の退団ほか悪条件が重なり劇団創立70周年の
昭和62年に解散します。「新国劇」の名称は澤田正二郎の遺族に返され、残った中堅メンバーは笠原章の率いる「劇団若獅子」を立ち上げ、
現在まで新国劇の精神を伝えています。
澤田正二郎の元妻で、新劇草創期の女優(代表格は松井須磨子)の一人です。
当時の資料によると、1896(明治29)年12月15日〈戸籍は1897(明治30)年3月10日〉大阪に生まれました。府立梅田高等女学校に学び、聖書や語学、洋画も研究しました。1912(明治45)年、画学生仲間が創刊した雑誌に挿絵を描くなど才気あふれる女性だったようです。
1913(大正2)年、大阪帝国座で近代劇協会による「ファウスト」を見て女優を志願し、上京して島村抱月の芸術座に入ります。そこで当時、松井須磨子の相手役として注目されていた澤田正二郎と知り合いました。1914(大正3)年、松井須磨子への不満などで澤田らが芸術座を脱退した時に行動を共にします。同じ年、大阪時代からの仲間がつくった美術劇場の試演で初舞台を踏みます。その後、有楽座での本公演で澤田と初めて共演し、東京市本郷区駒込東片町(現在の東京都文京区本駒込)で一緒に暮らし始めます。1915(大正4)年2月には歌集「戀歌」を出版しました。同じ年の3月には長女桃代子が生まれます。5、6月は新時代劇協会の公演、9、11月には新日本劇の公演に出演しました。
1916(大正5)年8月長男正太郎が誕生した後、1917(大正6年)4月、澤田は新富座で新国劇を旗揚げしましたが、不入りで失敗します。再起を期して関西へ向かう澤田らに同行します。やがて新国劇は喝采を浴びるようになりますが、舞台に立つことはありませんでした。
1920(大正9)年8月、二人は婚姻届けを出し、子供も正式に認知します。しかし、関東大震災後の1924(大正13)年に別居、2年後には正式に離婚しました。関西に戻り「渡瀬淳子演劇研究所」をつくって演劇活動を再開しますが、その後、再び上京して東京・銀座で「ジュンバー」を経営しました。澤田の人気は東京でも不動のものになっていました。その元妻として知名度は高く、店も繁盛しましたが、澤田が急逝すると後を追うように翌年病死しました。享年33歳。谷中墓地に埋葬され、現在、正太郎・摩耶子の息子夫婦と共に眠っています。
大阪出身で若いころからの知り合いだった作家の宇野浩二は渡瀬淳子をモデルにした小説(「恋愛合戦」、「女怪」など)を書いています。
明治末期から大正初期にかけて、小さな新劇の劇団が次々生まれ、イプセンの「人形の家」を始め女優を主役とした翻訳劇も多く上演されました。平塚らいてうの「青踏」の影響もあり、女優は「新しい女」として注目を集めました。しかし、役者や俳優への蔑視に加えて女性であるが故の好奇の目や非難の声に囲まれ、スキャンダルの対象にもなり、苦しい闘いを強いられました。渡瀬淳子もその一人と言えます。